裏読み©︎inema

旧作映画を中心に裏読みをしていきますね

【ファイトクラブ】

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1999年製作アメリカ映画。チャック・パラニュークの同名小説の映画化。


公開当初よりその暴力表現に批判が集まるも、熱狂的なカルト人気を巻き起こし…意味不明に殴り合いがやりたくなっちゃうのだが、そこに隠されたメッセージに気づくと殴り合うまでもなく…ぶちのめされちまう。


この映画における殴り合いとは、『自己としての意識』同士の接触を表現している。難しい哲学的定義でいえば、僕らは自己の存在を相対でしか認識できない…

という事。AはA以外と接触しなければ自分をAであると認識できない。Aはその他B,C,D,E…との相対関係で浮かび上がってAとして見えているに過ぎない。

…おくちポカンである。


これ『自我』のことなんだよ。


『自我』とは、私が居るというその認識。

  ほら、君いるよね?


存在論によれば、…認識に浮かび上がるものを存在としているにすぎないらしい…ので、俺いる!(←認識)大丈夫、いるよ!となる。で、幽霊みた!と友人の怪談話きかされても…お前がみただけ(←認識しただけ)で、俺にゃ見えない(←認識できない)から、共有して存在を認められない!みたいなこと。


『オマエが所有したものに、

 いずれオマエが所有される。』
僕らが所有してると思い込んでいるものとは?
部屋を埋め尽くす、ムダな雑貨ではなく!
あくせく働いて得た、わずかばかりの金で買った…ブランド品なんかでもない!
その『自我』さ。
もう一度言う。

『自我』とは、私がいるという

その…認識


僕ら気がついたら『自我』に目覚め、自分が生まれたと認識し、自分が居ると実感して、生存競争に参加させられているということに気づいていただろうか?


いずれその自我に所有されるというわけだ。
もっと適切にいうなら、

『私を所有することで、所有が私となっていく。』ややこしいが、これが理解できるとこの映画は殴り合い以上のパンチであなたをぶちのめしにやってくる。
 

タイラーは言う。
『おれたちは歴史の狭間に産まれた。目的も居場所もない。大戦もなけりゃ、大恐慌もない。俺たちの戦争は〝精神の戦い〟だ。大恐慌は俺たちの〝生活〟そのものだ。』

大戦があれば、自我は祖国の勝利に殉ずる。そう自分に言い聞かせられる。好むと好まざるとに関わらず、従うことを受け入れざるを得ない。
大恐慌があれば、金融政策をうつ。質素倹約を良しとする。限られた懐事情の中で最善を尽くそうと、蓄えを考え出す。
そうした時代の背景とテーマが目的へと自我を向けてくれるというわけだ。その背景とテーマこそ苦しみと犠牲そのものなんだよ。

だから…

『痛みがなく、犠牲もなければ、 何も得られない。』
というのは、僕らの存在そのものというより…

存在感…もしくは存在してる実感‼︎というやつ…僕ら痛みと犠牲の産物に過ぎないと言うわけだ。いや、そんな生易しいもんじゃない。犠牲や苦しみがなければ…

ぼくらは自我を認識できない!と言っているんだ!私がいるよねという当たり前の認識すら生まれ難いというわけだ。不眠症の主人公がまさにそれ。


あの映画みてボクシングクラブの真似事してる奴は、ただの原理主義者。
→かつてのボク


戦い方は人それぞれだからいんだけどね。
→さりげなく、自己擁護。
 
タイラーについて、話そう。

彼は実に様々なメタファーを含んでいる。
彼は映写技師のアルバイトをしている。フィルムの架け替えの隙間に入れるポルノ画像…こりゃリビドーだろう。

 

リビドー(libido)は、日常的には性的欲望または性衝動(sex drive)と同義に用いられる。世間一般的には、リビドーという言葉は押さえきれない性的欲求のようなものを指して使われる。特に男性の荒々しい露骨な性的欲求を表現する言葉としてしばしば使われ、また時には男性の性的欲望を軽蔑する意味合いの言葉としても使われる。

 

 

引用:Wikipedia
 
 

 

 


脳科学者は"意識と脳とクオリア"の関係を説明するときに"観客と映写機とスクリーン"に見立てることは有名な話である。

 

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見たという認識すらないその意識の一瞬の狭間に性的興奮の起爆剤を挿し入れてるというアルバイターのタイラーのいたずらだったとは…
僕ら…その…アレだよ、日常…ムラムラっとくるよね?アレってさ、自分で意図してる?意図してんのは、ムラムラの後!このムラムラどうしてくれようって考え出すだろ。後なんだよ、ムラムラの。…で、そもそものそのムラムラはというと不意にだろ?


アレ…タイラーの

     いたずらなんだよ!


サービス業界のゲリラテロリスト…これも上記の拡大解釈でよかろう。
意識と脳とクオリアが、消費者とサービス提供者とサービス内容満足度(クレーム)に置き換わっただけ。まさに消費者社会をうまく揶揄している。ここでもタイラーはありとあらゆるイタズラをしでかしているわけで。


彼は夜型らしい。これは暗に潜在意識を指していると思われる。


数ある映画批評家たちが、タイラーを様々なメタファーに当てはめて解説しているが、そのどれもタイラーの一側面を言い当てているに過ぎない。彼の本質は一言で当てはまるものでもないし、たんに理想の男像というチンケなものなんかじゃない。が、あえて僕も彼のメタファーを挙げるとすれば、彼は

『魂、もしくは霊魂』

非常に近い存在であろうと思うが、

どうだろう。

 

霊魂(れいこん、英:SoulもしくはSpirit)
[1]肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。
[2]肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられている、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在のこと。人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在。
[3]人格的・非物質的な存在。
[4]個人の肉体や精神をつかさどる人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在。

 

 

引用:Wikipedia

 

 

僕らが想像してる魂なんてものは…所詮タイラーみたいなもんなんじゃないだろうか。個人的な価値観や宗教観、文化によりけり魂を認めるか認めないかは人それぞれであり、科学的根拠も全く無いわけで。見たし、感じるし、あると言い張る人もいれば、死ぬまで分からない人が大多数である以上、必ずあると言い切れないあたりがジャックの妄想というオチにもしっくりあてはまる。もちろん、ジャックにとってありありと実体を伴って現れ立っていたのだから、彼にはそれが現実だったのだ。

 
ラストシーン

残り3分。タイラーのカウントダウンが始まるが、厳密に3分後にビルは崩れていない。尺の問題だろうか?もしや、タイラーは予期していたのではないか?自分(ジャック)が自分(タイラー)を超えていくことを!むしろそうなるように仕向け、追い込んでいるようにすら見える。論より証拠に3分後、爆発しているのはビルに仕掛けられたニトログリセリンなんかじゃなく、僕の手にある拳銃の薬莢の方なのだ!以後、マーラと手を繋ぎ崩れゆくビル群を眺めているのは、6分半あとである。


では、タイラーを超えてゆくとはどういうことか?たんに妄想を見抜くとか、自己という殻を破るなんてチンケなものじゃない。『魂、つまり永遠の自己を凌駕すること。』と言い切りたい!それが己の本質をこえ、宿命を打ち破ることなのだろう。


永遠の自己とは僕らが抱える道徳観念であり、生命と精神の原動力であったもの。非常に根源的な、それ。死後も存続し裁きを受ける自己。その先に裁きを下す神。


永遠の自己な

ありやしなかった。

妄想だったという無常感。それが幻影だったとわかっちゃった…その瞬間の清々しさをどう例えればいいのだろう。
僕らは通常、自己を認めて属した社会のルールの中に適したかたちで生存競争を戦かっている。より上へ。より多く。勝ち残るために。それを誰に誇りたいのかも知らず。なんだかわかんないけど頑張らなきゃいけない焦燥感すらある。はたまた、悪を排除し、正義をふりかざし、守ろうとあがく。あの世で裁量される何かがあるのなら、それはなんだろう?実はそれら裁量を決めていたのは自分自身に他ならないという観客一人一人のことなのだ!
それに気づいたとき、ジャックと同じショックを疑似体験できる。裁かれる魂なんてありやしないと気づくと、世界の見え方が一変する。

 

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では、何が違うのか?最後二人の後ろ姿を捉えて画面が大きく揺れたところで、タイラーのサブリミナルを挟みエンドクレジットへ流れてゆく。
最後の画面の揺れをビルの崩壊のためだと早とちりしてしまっている解釈が実に多い。これはビルの揺れではなく、フィルムの終わりそのものである。そう、映画フィルムの。


それが意味するものとは、ストーリーの終焉。見せられていた物語(自我)を見終えて、さあ映画館の座席を後にしろということに他ならない。


脳科学者は意識と脳とクオリアの関係を映画館に例えて話すと述べたが、そのことであろう。君の自我が紡ぎ出すストーリーを生きるのではなく、生身のお前自身を生きてゆけという強いメッセージ。そこに信じていた理想は、もうない。余計な見栄もいらない、嘘も、ごまかしもない。そもそも君は自分自身のなにを裁量し、あがいていた?と、問いかけている。だからこれ以後、

ストーリーにはならない。

つまり…

フィルムの終わりである!おそらくその後二人は激しく求めあって、スポーツセックスを楽しんだのだろう。ラストのタイラーのサブリミナルを受けて。スペース・モンキー集団も教祖の不在から自然消滅。もしくは教祖の命令もなく、各地でテロ行為を続けていくのか。それとてストーリーを脱した主人公には価値も意味もない。普段の生活へとまた埋もれてゆくのだろうと思う。しかしそれは以前のものとは違う。はずだ。自分が幸せなのか、不幸せなのかという裁量をすることもない生身のままの、ありのままの自分なのだから。


エンドクレジットでも主人公(ジャックは仮名)には名前が記されておらず…『ナレーター』と表記されているが、これには深い意味がある。

 

ほら、頭のなかでシロクジチュウ…

ストーリーの解説をしてくれてる

ヤツがいるだろ?

ほら…それが君の自我だよ。

ナレーションの声…

自我が君?


そいつはジャックと名乗る…

 

ただの思考だ!


精神医学、脳科学、哲学、どの分野においても自己存在の根拠(ま、平たく言やあ自我ね)を示す明確な答えは未だ見つかっていない。おそらく見つかりっこない。
その答えをタイラーは口酸っぱく連呼していた。ファイトクラブルールその1および2…
議論するだけ無駄と。…聞くなってわけだ。やっぱ、殴り合いか…